■ 演奏者としてのプロフィール
■ 声楽からピアノ演奏へ−人生と音楽の歩み

profile

□ みどりオルトナー・プロフィール □
midori ortner


ウィーン在住の異色ピアニスト。埼玉県出身。 浦和第一女子高校より東京藝術大学の声楽科へ進み、戸田敏子に師事。 1984年修士課程卒業、同年読売新人演奏会に出演。 藝大在学中から、ドイツ歌曲に魅了され、同年ウィーンに渡りオーストリア国立音楽大学、 ウィーン市立音楽院にてオペラ、リートを学ぶ。在籍3年目、後に夫となる故ロマン・オルトナー教授と出会い、 ヨーロッパにおける指折りの歌曲伴奏者であった同氏の勧めにより、ウィーン国立音楽大学のピアノソロ科に入学。 1990年には、同音楽大学のゾリステン・コンサートのソリストに選ばれ、 ウィーン樂友協会大ホールでシューマンのピアノ協奏曲を演奏し、ピアニストとしての道を歩み始める。 1997年同音楽大学のピアノソロ科修士課程を修了。
声楽家としては、ウィーンで更に ルイーゼ・シャイト、デヴィッド・ルッツ、ワルデマール・クメント、エディット・マチスらに師事し、 在学中には日本、オーストリアの各地で歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージ、 歌劇『売られた花嫁』のマリー、歌劇『魔弾の射手』のエンヒェン等のオペラや、 ドイツ歌曲を中心に現代音楽、20世紀の作品を得意として活動の軌跡を残している。
1991年以降は音楽活動の中心をピアノ演奏に移しているが、声楽家としての豊かな経験は、 ピアノ奏法における独特な表現力の基盤となっている。
ピアニストとしての教育は、井上道子、ヤン・ホラークに師事したほか、 ウィーン国立音楽大学にてロマン・オルトナー、ミヒャエル・クリスト、オレグ・マイセンベルクに学ぶ。 在学中から歌曲伴奏者として多くのコンサートに招聘され、 ヴェルナー・ホルヴェーク、クルト・エクヴィルツ、ロベルト・ホル、エレン・ファン・リアー、 ヨアンナ・ブロフスカ、アンゲリカ・キルヒシュラーガー等のパートナーを務め現在に至っている。
1993−94年には、オーストリア現代音楽作品を奨励する企画 「カサブランカ」の主要演奏家としてブレーゲンツ音楽祭、オーストリア国営放送にも出演し、 1994年にはスロヴァキアの国営放送局において、 D.ショスタコーヴィッチとA.シュニトケのピアノ協奏曲を演奏している。
1996年、ウィーン市郊外のプレスバウム市に「ピアノ芸術協会」を設立し、 「よりよき音楽を、より高き調和を」をモットーとして、 ウィーンの若い才能を集めて独特なコンサートシリーズを開催している。
2000年には、「東京の夏」音楽祭の招聘でエレン・ファン・リアーと来日し、 文学座のベテラン女優である藤堂陽子も加えて、 自作の台本による朗読を組み込んだ個性的なプログラムを披露している。 2003年にはオランダの名歌手とともに、東京武蔵野市とオランダのデルフト音楽祭の招聘されている。



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□ 声楽からピアノ演奏へ−人生と音楽の歩み □
〜 みどり・オルトナー:プロフィール詳細 〜
midori ortner ウィーン在住の異色ピアニスト。

埼玉県出身。幼少より音楽に親しみ、ピアノと声楽を学ぶ。 浦和第一女子高校卒業後、東京藝術大学では声楽を専攻(ソプラノ)し、 1984年3月修士課程修了、同年読売新人演奏会に出演。 藝大在学中からドイツ歌曲に魅了され、 同年ウィーンに渡りオーシトリア国立音楽院声楽科に入学、オペラ、リートを学ぶ。 在籍3年目、後の夫となる故ロマン・オルトナー教授と出遭い、 ピアノと声楽両方の素養と経験を生かした独自の音楽人生を歩み始める。 ヨーロッパにおける歌曲伴奏の第一人者であり、同音楽院リート科、 伴奏科で教鞭をとっていたオルトナー教授の勧めで、1988年、29歳のとき同音楽院のピアノ、 ソロ科へ入学。1990年同音楽院のソリステン・コンサートのソリストに選ばれ、 ウィーン樂友協会大ホールでシューマンのピアノ協奏曲を演奏する。 しかし同年、師であり夫であったオルトナー氏を癌で失い、 以後音楽院で勉強を続ける傍ら、コンサート活動とウィーンの国立オペラ座合唱団員 (非常勤)として勤務を平行して行い、幅広い分野での経験を積む。

歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージ 声楽家としては、日本で戸田敏子教授に、ウィーンでは、 1984年から91年にかけてオーストリア国立音楽院ならびにウィーン市立音楽院で、 ルイーゼ・シャイト教授、ディビッド・ルッツ教授、宮廷歌手ワルデマール・クメント、 カペルマイスター=クリストフ・シュタニシェフ、エディット・マチス教授らに師事する。 在学中には日本、オーストリアの各地で歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージ、 歌劇『売られた花嫁』のマリー、歌劇『魔弾の射手』のエンヒェン等のオペラや、ドイツ歌曲を中心に現代音楽、 20世紀の作品を得意として活動の軌跡を残している。 オシアッハとウィーンでロベルト・ホルのマイスターコースを受講。 1991年ザルツブルグ音楽祭の一環であるヘルブルン宮殿フェスティバルにおいて、 マーラーの歌曲によるコンサートに出演する。 その後、歌手としての舞台活動からピアニストとしての活動にその中心を移すが、 声楽の分野で受けた高い水準の教育は、 ピアノ演奏の分野で独自の音楽世界を築き上げる基盤となっている。

歌曲伴奏者としては、1991年から92年にかけて、ヴィースバーデン、コンスタンツ(ドイツ) において宮廷テノール歌手ヴェルナー・ホルヴェークの伴奏を、 ウルフ・シルマーの代役として勤め、新聞紙上で絶賛を博す。
藝大在学中から音楽史上意義のある公演に積極的で、J.J.ルソーのオペラ「村の占い師」、 A.シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番(ゲオルグの詩によるソプラノ独唱付き)、 A.ベルクの叙情組曲(声楽付き)の日本初演に出演した。 ウィーンにおいても、1993年から94年にかけて、 オーストリア人作曲家の作品と現代音楽作品を奨励する企画「カサブランカ」の音楽監督兼主要演奏者の一人に選ばれ、 数々の作品を初演する。 同じ企画で1993年のブレゲンツ音楽祭にも出演、 その演奏はオーストリア国営放送局によってラジオ全国放送され、CD録音もなされた。 1994年、スロヴァキア共和国のブラチスラヴァ音楽週間で D.ショスタコーヴィッチとA.シュニトケのピアノ協奏曲を演奏。 1995年には、ウィーンの名家ヴィトゲンシュタイン家の狩の城100年祭に招かれ、 ブラームスにちなむ由緒あるベヒシュタイン・グランドピアノで演奏を行う。 ピアノ芸術協会内部 1996年、ウィーン市郊外のプレスバウム市に「ピアノ芸術協会」を設立し、 その主要演奏者であるとともに芸術監督として活動している。 「よりよき音楽を、より高き調和を( Mehr Musik, mehr Harmonie )」をモットーに、 毎回異なったテーマをもつ個性的なプログラムを組み、 ウィーン一流の才能を集めて高い水準のコンサートを定期的に開催している。 商業化の進む音楽界の中では異例な、 音楽的理想と音楽による友愛の心の実現を求める精神に貫かれた小音楽天国が生まれつつある。

ピアノ奏法については井上道子氏とヤン・ホラーク氏に基礎を学び、 ウィーンで故ロマン・オルトナー教授よりウィーンの伝統的な繊細な響きの技法を、 ミヒャエル・クリスト教授より妥協のない正統派の解釈と技術を修得した。 また、今世紀最大のピアニストの一人であるオレグ・マイセンベルクのマスターコースの受講生に選ばれて、 その薫陶を直接体験した。こうした最高レヴェルの教育にそれまでに培った豊かな声楽を加え、 比類ないカンティレーネ奏法を会得したと言えるであろう。 時代、ジャンルに制限はなく、古典から現代にいたるまでの声楽作品、 室内楽作品、ピアノ独奏作品を幅広くレパートリーとする。 その作品の背景に関する徹底した研究に基づいた、時に詩や戯曲、 手紙などの朗読を取り入れた独特なプログラム構成は、聴く者に、音楽へのより深い理解と共感を生み出し、 他に例を見ない個性的なコンサートを実現している。