Writings


對位法的座談會:高瀬アキジャズ胃酸語る


発言者 : 
《Pipe Organs and Music》
Tokugoro Ohbayashi
《Pseudo-POSEIDONIOS project》
Yuji Sasaki
《a+30+a' Goldberg Variations》
Yoshiro Shikata
Compiled by Yuji Sasaki

[註]この議論は、1999年9月、mysyc地下活動の一環
として交わされた電信を大幅に編輯したものです。
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高瀬アキの「憂い」


四方 先日TUCのときに高瀬アキさんと話したことも書きたいのですが、なかなか腰が据えず。 アキさんは日本の音楽文化、ジャズメンに対してかなり憂いをお持ちの様ですね。

大林 その「日本の音楽文化、ジャズメンに対してかなり憂い」というのは具体的に言うとどういうことで? 非常に気になるところですが。 外国に住んでいると、日本のおかしなところが非常によく見えて来ますね。 私も、帰国してからもそういう観点だけは失いたくないと思っていましたが、次第に鈍感になってきます。

佐々木 この辺是非ご意見を聞きたいところです。
外にいれば、絶対そういう部分が見えてくる筈ですね。問題は、それをどう発言するかと、 プロ同士がどう啓発・解決していくか、ですが、私も関心持って見てみたい部分です。

四方 単刀直入に言うと、日本人のジャズ・プレイヤーはとても熱心に勉強しているが、 「ジャズというものはこういうものだ」という固定観念があまりに強く、 それに忠実に目指そうとするがために真の音楽の部分を喪失しているという憂いです。 その話はアキさんが15年前に日本を去った時の話にまで遡っていました。 その頃アキさんはヨーロッバでのジャズ・フェスティバルを経験し、 日本と向こうとの「セッションする」違いがあまりに異なっていることを痛感したのでしょう。

それに呼応するように、黒田京子さんもここ数年のセッションについて多くの体験を話していました。 結局、日本人プレイヤーの多くは模倣・コピー主義なのです。セッションしながら自分のソロ番が回ってくると、 この時とばかりに自分のセオリーや愛すべき巨匠のスタイルをぶちかます。 そこに会話という意味でのセッションは成り立っていない、と。

そのことは送り手であるプレイヤーの問題よりもジャズをどう捉えているか、音楽をどう受け止めているか、 セッションとは何か?といった、演奏以前の問題であろうと。学校での音楽教育の話題も出ました。 今子供たちのどれだけがピアノを習っているのか?文化のひとつである音楽を知る機会としての教育があるか否かなどなど。 ヨーロッパで共に演奏する連中の音楽の捉え方は日本人のそれと比べて、とても熱く寛大なのだそうです。 それは自分の音楽観というものがつねに投影されており、 ジャンルを越え音楽というものを全体的(というより文化的)な受け止め方をしているそうです。 そんな彼等とのセッションはやはり音やリフや崩しの豊かさが全然違うのでしょう。

ジャンルも形式も一切排斥して、今鳴り始め流れ出る音楽を音を一体どんな響きや感動や動機や語りや、、、 自分の耳で聴いてみようという習性こそが音楽理解の根本かもしれませんね。そんな話をずっとしておりました。

大林 さて、アキさんとの胃酸(?)語る、大変ありがとうございました。 予想通り私自身も日常的に危惧している問題であり、納得すると同時にますます胃酸の分泌が高まります。:-(

四方  日本人のジャズ・プレイヤーはとても熱心に勉強しているが、 「ジャズというものはこういうものだ」という固定観念があまりに強く、 それに忠実に目指そうとするがために真の音楽の部分を喪失しているという憂いです。
料理に関してで恐縮ですが、数年前から同様のことを強く感じています。 初めてボストンを訪れた時に誘われて行ったレストランがインターナショナルを強く意識したスタイルであって、 日本では体験できないようなダイナミズムに驚かされました。 日本では、フレンチはフレンチ、和食は和食、エスニックはエスニック、といった考え方しかできない。

その中では洗練されたことをやっているのですが、小さくまとまっていて国際的に通用するような力強さを持たない。 今回デンマークに行って再度、このことを強く認識しました。デンマーク人には彼らのアイデンティティーがあって、 一見フレンチ風の料理でもそれが強く表れているということです。

四方  結局、日本人プレイヤーの多くは模倣・コピー主義なのです。
自分の言葉を持たない、独自の主張が無い、ということですね。近年しばしば指摘されると思いますが、 ますます没個性的な民族になりつつあるのではないかと思う。 少なくとも、近年教育においてますますそういう傾向が強くなって、 その結果イジメの問題も顕在化してきたのだと私は考えています。 しかし、文部省が相変わらず全く逆行する方針であり、どこの政党も政治家も納得できることを言わない。

音楽(特に演奏)や美術のような純粋芸術における日本の現状は目を覆うばかりの惨状だと考えています。 でもクラシック音楽界全体の傾向は世界的にそうなっていますね。 特に、オルガニストは、以前から世界的に没個性的だと言えます。 これが私は不満ですが、大半が教会オルガニストだから仕方がない。

四方  文化のひとつである音楽を知る機会としての教育があるか否かなどなど。
文化とは何かなんて、日本の教育では教えないでしょ。でなければ、 雨後の筍のよう美術館やコンサートホールができて、 中身は相変わらず空っぽというみすぼらしい状況にはなっていなかったわけで。

四方  ジャンルを越え音楽というものを全体的(というより文化的)な受け止め方をしているそうです。
ジャズにせよ、クラシック音楽せよ、フランス料理にせよ、 それが日本に伝わってくる頃にはもうそれはジャンルとしては完成したものになっています。 あらゆる可能性が追求されて、それ自身ではもう発展の可能性が無くなっています。

四方  ジャンルも形式も一切排斥して、 今鳴り始め流れ出る音楽を音を一体どんな響きや感動や動機や語りや、、、 自分の耳で聴いてみようという習性こそが音楽理解の根本かもしれませんね。
そう思いますね! 芸術の理解は、自分の感性を信頼することだと私は思っています。

四方 大林  予想通り私自身も日常的に危惧している問題であり、 納得すると同時にますます胃酸の分泌が高まります。:-(
胃酸カタル。遺産語るにも引っ掛けましたが、 遺産を残させない今の日本文化への皮肉だったかもしれません。(^^;)

模倣でしかないことは自己不在ということだと思います。折衷すればいいのかと言うとそうでもない。 自分自身が見極めた素晴らしさを取り入れて咀嚼し自己をひとつに統合することなのかもしれません。 それはまさに音楽観というものなのではないでしょうか?

大林  自分の言葉を持たない、独自の主張が無い、ということですね。近年しばしば指摘されると思いますが、 ますます没個性的な民族になりつつあるのではないかと思う。
音楽というものは、極論ですが「言葉」と同じだと思っています。 世界共通語である側面は音楽の偉大さでもあると思っています。 何が共通するかと言うと、そのメッセージ性だと思うのですよ。 具体的な事柄を提示するものもあれば暗に抽象的に文化や歴史やセンスを伝えるものもある。 ですからそれをコンヴェイしないものはやはりコピーであって、 結局形骸化したものだと言っても過言ではありません。 音楽を聴くことは現前で鳴っている音の質に心動かされつつもそれが何らかのメッセージであることを知るべきでしょう。 でなければ聴いたことにはならないのです。科学的生理的心情的に響く音が音楽です。 だからその音楽的会話であるジャズのセッションはその最たるものだと感じるのです。

大林  あらゆる可能性が追求されて、それ自身ではもう発展の可能性が無くなっています。
つまり、発展させなくてはならないのは完成された音楽ではなく、それを受け入れる己ということですね。

大林  芸術の理解は、自分の感性を信頼することだと私は思っています。
それが音楽を愛好することの喜びですよね!悲しいかな、私の場合は自分の感性を疑うところばかりですが(笑)。 いつもそこからスタートです。だから楽観的に感動もするのでしょうけど。(^^;)

佐々木 四方  固定観念があまりに強く、 それに忠実に目指そうとするがために真の音楽の部分を喪失しているという憂いです。
高瀬さんの憂いは、全くクラシカルもコンテンポラリィも同じで、 皆、ミッシング・リンクを探す旅には出るが、 自分の中にある音楽観の探索そのものは避けているのではないかと思います。 そして、故小泉文夫大先生の言うとおり、それは単にプリファブリケーションであって、即興ではないと。

四方  そこに会話という意味でのセッションは成り立っていない、と。
全くクラシカルも同じです。もはや譜面に書かれているか否かだけの問題でもなさそうですね。

四方  ヨーロッパで共に演奏する連中の音楽の捉え方は日本人のそれと比べて、とても熱く寛大なのだそうです。 それは自分の音楽観というものがつねに投影されており、 ジャンルを越え音楽というものを全体的(というより文化的)な受け止め方をしているそうです。
音楽だけではありませんよ。 自分以外の人間、すなわち異種文化背景同士は「会話」「対話」によって、お互いをどう理解するか、 という教育が徹底してなされている訳です。 彼らはオリジナリティとか個性主義なんてことは言いもしないし、思いもしない。 というのも、自分と他人が違うのは当たり前であるからです。そもそもそういう意識の違いが、 つまらぬ教条主義的オリジナリティなり、××理論などと賞揚したがるところ、 日本の変なところなのですね。

四方  ジャンルも形式も一切排斥して、 今鳴り始め流れ出る音楽を音を一体どんな響きや感動や動機や語りや、、、 自分の耳で聴いてみようという習性こそが音楽理解の根本かもしれませんね。
鳴った音に蘊蓄を傾けても仕方がないって思うのですね。 鳴っている現実が、すなわち、現前する自分。鏡は己が前に立てるしかありませんから...。

大林  日本では、フレンチはフレンチ、和食は和食、エスニックはエスニック、といった考え方しかできない。
料理もそうですよね。
結局、日本とは、本当に才能ある人が溢れて、 その才能が海外で評価されて逆輸入してくるということの繰り返しなんですね。 つまり、オーソライズすべき人材も、機関も価値観もないというわけです。

大林  音楽(特に演奏)や美術のような純粋芸術における日本の現状は目を覆うばかりの惨状だと考えています。 でもクラシック音楽界全体の傾向は世界的にそうなっていますね。
ホントにそうですね。

大林  文化とは何かなんて、日本の教育では教えないでしょ。 でなければ、雨後の筍のよう美術館やコンサートホールができて、 中身は相変わらず空っぽというみすぼらしい状況にはなっていなかったわけで。
これもその一例でしたねぇ....(^^;)。これも、右倣え「文化」なのでしょうけれど(笑)。

四方  模倣でしかないことは自己不在ということだと思います。 折衷すればいいのかと言うとそうでもない。 自分自身が見極めた素晴らしさを取り入れて咀嚼し自己をひとつに統合することなのかもしれません。 それはまさに音楽観というものなのではないでしょうか?
模倣自体は、過程的に必要なものですから、退けるわけには行かない。 でも、模倣を通じて、自己世界の奥底に辿り着ける人は所詮ほんの一部です。 ですから、「才能」を認めてもらうには、他分野の中からうまく「組み合わせていく」 −プリファブリケーション−こそが、最ももっともらしくなるということになります。 自己不在というより、本当は自己欺瞞なのかもしれませんね。

しかし、或る意味ではバッハだとて、独創的である部分以上に、 残された作品は偉大なる模倣者である部分も大きい訳ですね。 だから、偉大なる模倣の集大成になることなら、道としては必ずしも間違っていないと思うんです。 しかし、そういう人も居ない。

大林  自分の言葉を持たない、独自の主張が無い、ということですね。 近年しばしば指摘されると思いますが、ますます没個性的な民族になりつつあるのではないかと思う。
四方  音楽というものは、極論ですが「言葉」と同じだと思っています。 世界共通語である側面は音楽の偉大さでもあると思っています。 何が共通するかと言うと、そのメッセージ性だと思うのですよ。
そうですね。

四方  音楽を聴くことは現前で鳴っている音の質に心動かされつつもそれが何らかのメッセージであることを知るべきでしょう。
そのメッセージは何かといえば、それはその人そのもの、音の肉化ですね。 その人が音に仮現していかねば、会話そのものがつまらなくなってしまいますから。 大林さんの言ともども、やはり音の会話以前の問題なのかなと感じています。 はっきり言えば、個人の文化背景を築く教養というものが、根底に全く欠けているということでしょう。

大林  あらゆる可能性が追求されて、それ自身ではもう発展の可能性が無くなっています。
四方  つまり、発展させなくてはならないのは完成された音楽ではなく、 それを受け入れる己ということですね。
ブレイク・スルーは、どうしたって、まずは自分からです。 そこから、完成された様式を破壊し、超克していく力がある人だけが、様式ごとブレイクしていく。

大林  芸術の理解は、自分の感性を信頼することだと私は思っています。
四方  それが音楽を愛好することの喜びですよね!
わたしもそう思います。 絶対的にそこしかありませんし、それがなかったら発言そのものも模倣になってしまいます。 かくいう私も、いつも模倣者からスタートしている訳で...。 批判は甘受するが、自分にとって正しいかどうかを受け容れる反芻も大切だと最近しみじみ思っています。 そうすれば、やがて自分もブレイク・スルーが訪れる。



Mimesis - Mimema ?


四方 佐々木  模倣自体は、過程的に必要なものですから、退けるわけには行かない。 でも、模倣を通じて、自己世界の奥底に辿り着ける人は所詮ほんの一部です。
過程的、その通りですね。 このところは行為としては同じでも模倣という言葉だけでは置き換えられない大きな違いがあります。 日本ジャズの憂いだという模倣はその価値を認め100%、可能な限り成り切ろうとする行為で、 模倣を通じて自己世界の奥底に辿り着けるような努力は、 その良いところを認め最初は模倣であるけれども端から自分のものとして消化吸収する行為です。

佐々木  しかし、或る意味ではバッハだとて、独創的である部分以上に、 残された作品は偉大なる模倣者である部分も大きい訳ですね。 だから、偉大なる模倣の集大成になることなら、道としては必ずしも間違っていないと思うんです。 しかし、そういう人も居ない。
ですから、バッハでの模倣も模倣という言葉で表されるものではなく、 バッハ自身が、たとえばイタリアのコンチェルトや北ドイツのオルガン曲に見出した音楽の価値を、 体系化癖(^^;) の性分も手伝って集大成としたのかもしれませんね。 それはおそらくバッハの中では習作・試作的な面が強かったのではないでしょうか? これが後の作品にどう活かされているか具体的に指し示す事例などもきっと研究成果があるのでしょう、、、。

四方  音楽を聴くことは現前で鳴っている音の質に心動かされつつもそれが何らかのメッセージであることを知るべきでしょう。
佐々木  そのメッセージは何かといえば、それはその人そのもの、音の肉化ですね。 その人が音に仮現していかねば、会話そのものがつまらなくなってしまいますから。
メッセージ、音の会話以前の問題、すなわちその人なりですね。 突き詰めると音楽ばかりではなく、レゾンデートルまで行ってしまいますね(笑)。 ここいらで留めておきましょう。(^^;) ここでは音楽を中心に据えましょう。

佐々木  批判は甘受するが、自分にとって正しいかどうかを受け容れる反芻も大切だと最近しみじみ思っています。 そうすれば、やがて自分もブレイク・スルーが訪れる。
音をどれだけ寛大に受け入れられるかと同様に、 人の声(主張・批判)にどれだけ耳を傾けることが出来るか、ですね。 そこから議論と自分の理解の深まりが生まれるのですけど、 批判、議論もいろいろなスタイルがありますからね〜(爆)。 不毛のものであるだけでなく、質の悪いケースもままあります。(^^;) 自分の理解のための反芻・繰り返しとは別に軌道修正での繰り返しもあったりします(失笑)。

ジャズ評論家の横井一江さんが高瀬アキ・サイト用にと、 かつて『ジャズ批評』に掲載したアーティクルを加筆して送ってくれました。 1994年、95年の記事です。驚きました。今回mysycで話していたことを、 アキさんはすでに5年も前に明言提示していたのですね。

大林 佐々木  結局、日本とは、本当に才能ある人が溢れて、 その才能が海外で評価されて逆輸入してくるということの繰り返しなんですね。
全くそうですね。 そして過去30年間、この状況は変わっていないか、却って悪化していますね。

佐々木  しかし、或る意味ではバッハだとて、独創的である部分以上に、 残された作品は偉大なる模倣者である部分も大きい訳ですね。 だから、偉大なる模倣の集大成になることなら、道としては必ずしも間違っていないと思うんです。 しかし、そういう人も居ない。
四方  ですから、バッハでの模倣も模倣という言葉で表されるものではなく、バッハ自身が、 たとえばイタリアのコンチェルトや北ドイツのオルガン曲に見出した音楽の価値を、 体系化癖(^^;) の性分も手伝って集大成としたのかもしれませんね。
そうですね。バッハの模倣はわりと小手先のものですかね?  オルガン音楽に限って言えば、彼はグリニの作品を懸命に写譜したと言われていますよね。 でも彼のオルガン作品の中で明瞭にその影響を聴き取れるものは皆無ではないでしょうか?  青年時代のブクステフーデの影響にせよ、明らかにそう思える作品は何曲かありますが、 確実にバッハの作とされるものについては、後年のワイマール、ライプツィヒ時代の作品との間に、 バッハ独自の形式上の一貫性がすでに芽生えています。

例えば、バッハは、前奏曲[トッカータ](とフーガ) といった自由形式の作品において、 ブクステフーデがやっていた、フーガとそうでない部分が交互に現れる形式は殆ど最初から放棄して、 前奏曲[トッカータ]とフーガの2つの部分に集約した形式を始めていますね。 これは、バッハが始めた形式ではないでしょうか???

形式とか、作品の構築性、構成力、といったものを考える時、 バッハには確かに偉大なオリジナリティーがあると同時に、 ブクステフーデの感覚的・即興的インスピレーションには欠けると思うのですね。

佐々木  批判は甘受するが、自分にとって正しいかどうかを受け容れる反芻も大切だと最近しみじみ思っています。
四方  音をどれだけ寛大に受け入れられるかと同様に、 人の声(主張・批判)にどれだけ耳を傾けることが出来るか、ですね。
そうですね、自分の信念が正しいかどうか、 できるだけ客観性を持って反芻する、これは大切なことですね。 ですから、オルガンなり音楽に対する自分の考えも次第に変わっていくのですが、 自己改革努力の欠如した人たちにとっては、それが判らないらしいです。 私はいい加減で信頼のおけない人間、ということになります。 (でも、嫌いなものが好きになった、というケースは有っても、その逆は少ないですね、幸いにも。)

四方 佐々木さん、ミーシャもおハマりのようで。(^^;) リーダ−作、面白そうですね。 私も今度探してみようと思います。 糖尿でどろどろの血流で息絶えたエリック・ドルフィーの名盤《Last Date》 のピアノも確かメンゲルベルクだったはずです。実際にはこれが本当のラストではありませんが。

今回のライブ3本で、セロニアス・モンクも改めて聴いてみようかなぁと思っています。 つまり、高瀬アキさんや黒田京子さんがどう料理しているのか?知るために、です。 ビニールいちいちかけるのは面倒なのでCD根こそぎ主義爆発寸前の危うい状態です。(^^;)



BachからBuxtehudeを逆照射する


佐々木 大林  バッハの模倣はわりと小手先のものですかね?
基本的には、徹底して「修辞手法」の修得だけだったと思います。

大林  形式とか、作品の構築性、構成力、といったものを考える時、 バッハには確かに偉大なオリジナリティーがあると同時に、 ブクステフーデの感覚的・即興的インスピレーションには欠けると思うのですね。
はい。但し、どうなんでしょう?現存する彼のクラヴィア作品は、 即興から筆を起こしたものなのか、構想もとに書かれたものなのか....。 両方あるでしょうが、どちらが濃厚なのでしょうね?
或る意味で、どうしたってバッハは整然としすぎるきらいはありますね。 楽想の構成・拡張に段差や破綻がなさ過ぎるかなと思います。

四方 大林  確実にバッハの作とされるものについては、後年のワイマール、ライプツィヒ時代の作品との間に、 バッハ独自の形式上の一貫性がすでに芽生えています。
大林さんにとって、 それは模倣を吸収してバッハ自身が発展させたのとは違うというお考えになるのでしょうか? それとも模倣は模倣で終わっていて、別の変化のようなイメージですか?

大林 「模倣」の周辺については、特にバッハにおいては、佐々木さんが以前、 この場で述べておられるように私も考えています。

四方 大林  例えば、バッハは、前奏曲[トッカータ](とフーガ) といった自由形式の作品において、 ブクステフーデがやっていた、フーガとそうでない部分が交互に現れる形式は殆ど最初から放棄して、 前奏曲[トッカータ]とフーガの2つの部分に集約した形式を始めていますね。 これは、バッハが始めた形式ではないでしょうか???
これも同じようなお伺いとなりますが、 ここでは具体的にブクステフーデのやっていたことを飛躍? させて集約した形式としたという深く関連付けた認識になるのでしょうか? だとすれば、自分の中ではやはりバッハの偉大さの再認識ということにもなるやもしれません。 何しろ前に書きました様に、ほとんど理解に苦しんできた世界ですから。(^^;)

大林 飛躍?させて集約したというよりも、北ドイツ、イタリア、フランスなどあらゆる要素を咀嚼して取り入れ、 バッハ自身が納得できる自分のスタイルを自然に創り上げていった、と思えます。

四方 大林  形式とか、作品の構築性、構成力、といったものを考える時、 バッハには確かに偉大なオリジナリティーがあると同時に、 ブクステフーデの感覚的・即興的インスピレーションには欠けると思うのですね。
マルシャンとの即興対決などのエピソードもありますし、 それなりに即興演奏も凄かったのでしょうが、 ブクステフーデとの即興的インスピレーションの決定的な違いとはどんなところになりますか?

大林 佐々木  或る意味で、どうしたってバッハは整然としすぎるきらいはありますね。 楽想の構成・拡張に段差や破綻がなさ過ぎるかなと思います。
これがブクステフーデとの大きな違いですね。 つまり、聴き手がある瞬間ハッとするような要素が、 作品自身には(表面的には)ほとんど見あたらないということです、 私が言った感覚的・即興的インスピレーションとは。 ですから、そのような要素は演奏者が譜面の奥底(?)から読みとるか、 あるいは奏者自身の音楽性・即興性で補ってやらないと、生きた音楽にならない。 バッハのオルガン音楽の大方の演奏が私にとってつまらない理由は、まさにここにあります。

即興演奏と作品とを分けるのは、後世の人間が勝手にやっていることです。 けれどもやはり、バッハは、即興よりも、推敲による音楽作りが得意だったとは言えるでしょう。 私の勝手な想像では、マルシャンには負けなかったとしても、 ブクステフーデほど面白い即興はできなかったと思います。 しかし、論理的なバッハの性格はオルガンという楽器を操るにはうってつけで、 このため、バッハの即興は音楽的には破格な面白さは無かったとしても、 音色・音響的には何人も及ばぬ個性的なものであったと、想像されます。

佐々木  インプロバイズで出てくるような、不定形かつ自由奔放な楽想の展開や和声的飛躍・段差のようなものが、 ブクステフーデの音楽の力強さとすれば、バッハにはそれはほとんどないですね。
バッハが本当に即興の名手だったとしたら、修辞法にせよシンボリズムにせよ、 あれほどまでにこだわる必要はなかったでしょうね。

ブクステフーデのオルガン作品は、生前には出版もされなかったし、自筆の楽譜など一つも残っていません。 そもそも当時の北ドイツのオルガンの記譜法は五線譜と比べて直感的ではないタブラチュアが主流で、 しかも彼の作品は弟子等による写譜という形でのみ伝えられています。

こういうことを考えると、「即興」と「作品」が別個の概念としてどこまで 確立していたのか? だんだんジャズの世界に近付いてくるじゃないですか!
結果として、バッハは他に例を見ないほど偉大な作品を多く残していると思えますが、 そのヨハン・ゼバスティアンが自分が務める教会に4週間の休暇を願い出て遙々リューベックへブクステフーデを訪ねに出かけ、 4か月後にやっと帰って教会をクビになりかけた、という有名な話を考えてみます。
この何ヶ月もの間、バッハは何をしていたのか?
何に夢中になり、何を学んだのか?あるいは、10歳年長のブクステフーデの娘と結婚して リューベックマリア教会のオルガニストになることを真剣に考えたのか?

オルガンの調律や修理をさせられたことは間違いないです。 ひょっとしたらブクステフーデの演奏を聴きたいためにふいごを押してやったかもしれない。 常識的に、『夕べの音楽』のために作曲されたカンタータなどの音楽、 そしてオルガンの即興(的)演奏、これらバッハにとってはかなり異質なブクステフーデの音楽から、 特に技術的なものを多く学び取ったと思います。

四方 佐々木  インプロバイズで出てくるような、不定形かつ自由奔放な楽想の展開や和声的飛> 躍・段差のようなものが、 ブクステフーデの音楽の力強さとすれば、バッハにはそれはほとんどないですね。
大林  これがブクステフーデとの大きな違いですね。 つまり、聴き手がある瞬間ハッとするような要素が、 作品自身には(表面的には)ほとんど見あたらないということです、 私が言った感覚的・即興的インスピレーションとは。
う〜む、なぁ〜るほど。 グールドのコンサート・アボートとバッハ作品の共通性がここに見出せるような気もします。 どちらも時間軸に捕らわれない音楽を選んだ。一連のバッハ即興観には痛く説得力がありました。

大林  こういうことを考えると、即興という概念、作品という概念がそもそもどこまで確立していたのか?  だんだんジャズの世界に近付いてくるじゃないですか!
いやいや、その通りです。 私も途中から二つの話題がまったく同じ世界の話をしているようだと思っていました。

即興。即時。その瞬間。それこそ音楽。高瀬アキ・サイトに張りつけました。(^^;)
When you hear music, after it's over, it's gone in the air.
You can never capture it again .... (Eric Dolphy. 1964)




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Last Revised : Nov.14.1999