Writings


對位法的座談會:高瀬アキジャズ胃酸語る



Buxtehude-Jazz is new missing link ??


四方 そのブクステフーデを最も聴くことの出来るCDは何でしょうか?是が非でも聴いてみたくなりました。 是非教えてください。

佐々木 一番良いのは、やっぱり機関車ミシェル・シャピュイ(VALOIS)でしょうね。

大林 全ML開闢以来の重要にして解答困難のご質問ですね、、、(^^;;;;;;) そういうものがすでにあれば、この先私が買うCDもかなり減るはずなのですが、 そうなっていない現状が問題なのです。

そこで、問題を少しずらしますと、即興性の他に、ブクステフーデの特徴として、 和声の大胆さ・斬新さ、それからアンサンブルにおける楽器編成の自由さ、などもあるかもしれません。 (ただし、後者は必然的なものかどうかは疑問ですが。)

これら、特に和声に関してはオルガンよりもカンタータを聴くと、よく解ります。 特に、バッハの同様の曲(つまりカンタータ)と比較するとその差が浮き上がってきます。
私がブクステフーデに対して、 格別の関心を持つようになったのは彼ゆかりの地(Helsingoer)の教会で初めて聴いたカンタータでした。 その和声の斬新さは、バッハより 50歳年上の作曲家のものとは信じがたいものだったからです。 最近これらの録音もかなり増えてきました。 ひどい演奏もありますが、そこそこのものなら、そういった和声や音色面でのユニークさはよく判るでしょう。 私がデンマークで最初に聴いた曲/演奏に匹敵するものは見つかっていないのですが。

さて、これらカンタータの演奏に比べると、オルガンの演奏や録音はどうも面白くない。 あまりにも楽譜に頼りすぎているのです。 そのような中で、多少なりとも私が描く彼のイメージに近いものはやはりシャピュイの録音(の一部)だと思います。

四方 情報ありがとうございます。さっそくチェックしてみましょう。

全く以っておバカなご質問だったかもしれません(汗)。 ま、ブクステフーデの時代にはCDなんかないからその即興なんか聴けません、、、 なんていう回答があったらどうしようかと思っていましたが(爆)。 でもまぁ、何でも試みの時代ですからそれを少しでも堪能できる世界があるんぢゃないかと思った次第です。

大林さん、バッハのオルガン即興演奏のアーティクルをありがとうございました。 これまで考えたことのない仕切りを得たように思います。 そして、ブクステフーデの即興はきっとジャズ。 インプロヴィゼーションに近いインスピレーション世界のものであるように捉えています。

大林  私がデンマークで最初に聴いた曲/演奏に匹敵するものは見つかっていないのですが。
それが誰の演奏で何という曲だったのかぜひお伺いしたいのですが。 何よりも自分の耳で聴いてみなくては!

大林 四方  全く以っておバカなご質問だったかもしれません(汗)。
(爆)うむ、全く申し訳ありませぬ。 私めの表現は常に過剰に走るようでして、 生身のブクステフーデを聴けるCDというふうに解したわけではありませんので、冷汗はご無用です。 もちろん「それを少しでも堪能できる世界」を私も追い求めている次第です。 でもそれはオルガン演奏ではほとんど無い。 (強いて挙げるなら佐々木さんも挙げておられるシャピュイの録音で、それには私も強く賛成します。)

四方  これまで考えたことのない仕切りを得たように思います。
冷や汗ものですね。でも、誰もそのようなことを指摘していないし、 オルガン演奏家はおよそ無視したことをやっているような気がします。 シャピュイのバッハの録音は、この点からも重要なものだ考えています。

大林  私がデンマークで最初に聴いた曲/演奏に匹敵するものは見つかっていないのですが。
四方  それが誰の演奏で何という曲だったのかぜひお伺いしたいのですが。
ありましたよ!  デンマークの dacapo (Marco Polo) 8.224005 から出ている Bux の Complete Chamber Music Vol.III を 今日初めて聴いたところなんですが (Vol.I と II は未入手) これはとてもいい演奏です。 カンタータではなく室内楽です。
私は、いわゆる古楽畑の奏者は知らないのですが、 (第1)バイオリンを弾いている John Holloway は非常に有名な人らしいですが、 とにかく彼が牽引力となって極めて力強く「即興性に富んだ」演奏を展開しています。 もの凄く説得力のある演奏です。6曲のソナタがすべて Buxのものかどうか分かりませんが、 「変な」創意工夫と例の和声やけい留が耳につくものは明らかにBux の作品です。
あいかわらずBGMで聴いているので、 一々検証していませんが、気が付いたところでは BuxWV 267 は、 ヴィオラ・ダ・ガンバ2本という編成が変だという点を除けば、 どう聴いても私の耳には Bux とは思えないですけど、、、どうでしょう?  演奏もイマイチのように思えるなあ。

*しかし* 間違いなく、 このCDには私が今までに聴いた最上のブクステフーデ作品の演奏が含まれています。

四方  そして、ブクステフーデの即興はきっとジャズ。 インプロヴィゼーションに近いインスピレーション世界のものであるように捉えています。
そう願いたいですね! 四方説(?)の傍証たるべく、またまた大風呂敷を広げます。

ジャズの即興(主として前衛以前の和声を重視したもの)の聴き所は、 フレーズ(あるいは和声の進行)を作っていく際に 音楽の通常の自然な流れとは違う方向へ向いていく(これを破格と呼んでもいいですが)、 それがモンクなりバド・パウエルのように、潜在意識下で?、あるいは単なるミスタッチか、 あるいはクラシックのように弾く必然性が無くなった際の曖昧さから (この曖昧さはモダンの時代になってから出てきたものでしょうが??)、 変な不協和音なりリズムの揺らぎが偶発的に起こる、 あるいはまた勢い余ってフレーズが必要以上に伸びてしまうとか、そういった予定と違ったことが起こってしまう。 そのままで、予定していたフレーズなり和音に戻ったら音楽の構築性が失われてしまうわけですが、 それを即興的に繕ってやらなければいけない。 つまり、「カウンター・バランス」の行動をとらなければいけない。 オチがあって収拾されるといいますか。それがないと、音楽としては気持ちが悪い。 その機能が巧く働く人が優れた演奏家だ、というふうに私は考えています。 あくまでも、古典的なジャズの枠内での話ですが、 大まかに言えばコンテンポラリーでも同じようなものでしょう。

ブクステフーデがジャジーだと言うのは、 彼の作品の中にはそのような不意に音楽が間違ったんではないかと思うような方向へ流れたり、 不協和音が突如混入してきたり、あるいは変な音型が突然隊列のように現れてきたり、 あるいは、おっとっと、字余りだ、なんてことが頻繁に起こるわけです。 これは、もちろん紙に書きとめられた音楽ですが、 そうなった原因はブクステフーデの作曲手法にあると思うのです。
どう考えても、彼はバッハのような推敲型の完全主義ではなかった。 どちらかと言えば、もちろんヘンデルに似ていますが、音楽性はヘンデルよりはずっとヘンである。 変なところがあっても、それは彼の破格のなせる業、個性であって、作曲した時にすでに帳尻は合わせてあるのです。 その作曲の方法が、ジャズにおける即興性と類似しているように私は思います。 ですから、そういった種類の即興性を持ち合わせていない音楽家が演奏すると、 その破格部分や、無意識にダイナミックに行われるはずの収拾部分との関係が有機的に捉えられていなくて、 従って、音楽全体の造形がすっかりおかしくなる、というふうに私は勝手に考えています。

もっとも、ブクステフーデのオルガン曲にもいろいろなタイプのものがありますので、 全般的な話として、そういうことが言えるのではないかな、とう程度です。 いずれにせよ、このジャジーな軽快さを彼のオルガン曲に反映した演奏が聴きたい。
シャピュイのブクスは佐々木さん同様、私もオルガン録音では第一に推すのですが、 上述の室内楽(あるいはカンタータ)などを聴いていると、 機関車的な疾風怒濤はブクスの本質とは少し違うのではないかと思うようにもなってきました。 (もっともシャピュイの録音の中にも、やや小回りの効いているものもあると思うので、 もう少し聴いてみないといけません。)

こういうジャズ型の作曲家は音楽史上他にあまり例がないのではないでしょうか?  あるいは、なかなかまともに演奏できないから、今まで評価されていないとか、、、
ついついのめり込んで、解説が長くなってしまいました。

四方 四方  そして、ブクステフーデの即興はきっとジャズ。 インプロヴィゼーションに近いインスピレーション世界のものであるように捉えています。
大林  そう願いたいですね!
音楽と即興について、このところのイヴェントやこのmysycにも影響されて、 これほどまでに心躍り考えあぐねたことは今までなかったように思います。 考えてみれば即興こそが「音楽の真実」なのではないかとさえ。



Buxtehudeの源泉


佐々木 大林  デンマークの dacapo (Marco Polo) 8.224005 から出ている Bux の Complete Chamber Music Vol.III を今日初めて聴いたところなんですが (Vol.I と II は未入手) これはとてもいい演奏です。
以前から、余裕があったら聴いてみたいと思っていました。面白そうですね。
思い出したのですが、そういう意味ではブクステフーデのチェンバロ作品、 特に「La Capricciosa」の変奏曲はすばらしいですね。 完全にフレンチ風ですが、バッハにはこういう作品は書けないでしょう。

大林  ブクステフーデがジャジーだと言うのは、 彼の作品の中にはそのような不意に音楽が間違ったんではないかと思うような方向へ流れたり、 不協和音が突如混入してきたり、あるいは変な音型が突然隊列のように現れてきたり、 あるいは、おっとっと、字余りだ、なんてことが頻繁に起こるわけです。
このあたり、ルネサンスの「ムジカ・スペクラティーバ」の伝統をブクステフーデは知っていたのかな、 などと考えてしまいました。

大林  ですから、そういった種類の即興性を持ち合わせていない音楽家が演奏すると、その破格部分や、 無意識にダイナミックに行われるはずの収拾部分との関係が有機的に捉えられていなくて、 従って、音楽全体の造形がすっかりおかしくなる、というふうに私は勝手に考えています。
これは炯眼だと思います。ただ、これが証明されるべき演奏はこれだと確言できないのが残念です。

大林  こういうジャズ型の作曲家は音楽史上他にあまり例がないのではないでしょうか? 
Buxtehude<ジャズ型という解明自体、驚くべき考察と思われますので、 そういう観点から音楽史を垣間見たことはなかったことから、私には全くわからないというのが実態です。 少なくとも今世紀の多くの音楽的財産には、そのようなものは多数あるのでしょうが、 それ以前、特にバロック期となるとわからないですね。 ただ、先にも挙げたとおり、 ルネサンス期からバロック初期の音楽理念実践の中にある程度ヒントがあるのではないかと考えています。

大林 佐々木  そういう意味ではブクステフーデのチェンバロ作品、 特に「La Capricciosa」の変奏曲はすばらしいですね。完全にフレンチ風ですが、 バッハにはこういう作品は書けないでしょう。
彼のチェンバロ作品とされているもので、 私の持っている楽譜に載っているものはあまり面白くなかったようなので、 以後敬遠していたのですが、そろそろ腰を上げないといけませんね。

佐々木  ルネサンス期からバロック初期の音楽理念実践の中にある程度ヒントがあるのではないかと考えています。
純粋に和声の面から考慮してみると、 ジャズにおけるハーモニーはクラシカルが踏み入れなかった領域まで開拓しているのですけれど、 その萌芽のようなものはやはりブクステフーデに見られるような気がします。 ただ、当時の鍵盤楽器の調律法の制約からか、 オルガン曲(そして恐らくチェンバロ曲)の場合には、 室内楽曲やカンタータが持っているほどの自由さは見られないような気がします。

しかし、紙の上で作曲することは自由ですから、 ルネサンス〜バロック初期の多くの作品(その大半はまだ多くの図書館で眠っていますが) の中にはジャジーでなくとも、驚くような異形・奇形(良い意味で)の作品が見つかるかもしれません。 例えばシャピュイは、サラマンカの大学(?)図書館の中は素晴らしいマニュスクリプトの宝の山だ、 というようなことを言っていました。

佐々木 いろいろ考えますと、 バッハやヘンデル、マッテゾンが参集した「夕べの音楽」の集いというものは、 書かれた音楽の書法ということだけではなかっただろうと思うのですね。 今で言えば、かなり実験的なものもあったでしょうし、 ブクステフーデがフランスに通暁しているところからして、 他国音楽の語法という興味もあったでしょうが、 実は「即興の夕べ」だったのかな、などと空想しています。

大林  オルガン曲(そして恐らくチェンバロ曲)の場合には、 室内楽曲やカンタータが持っているほどの自由さは見られないような気がします。
そうです、そうです。 室内楽はともかく、私はコープマンによるブクステフーデのカンタータ全集を持っていますが、 バッハのカンタータに比べ非常に歪な教会音楽なのですね。 バッハ・ファンからすれば「へんてこな音楽」的要素は多大です。 面白そうなので、今夜、もう一度引っぱり出そうかなぁ...。

大林  ルネサンス〜バロック初期の多くの作品の中にはジャジーでなくとも、 驚くような異形・奇形(良い意味で)の作品が見つかるかもしれません。
「ムジカ・スペクラティーバ」も完全に「異形・奇形」の世界です。 特にリズム形成が、無茶な分割があって面白いですよ。 バロック期が実演に基づく音楽形成の深化とすれば、ルネサンス期はまさに、 音楽思想的な実験が繰り広げられていたのではないでしょうか。

不可解な半音階進行は、実はジェズアルドの特権ではなく、 非常に高貴な人間の居る私的な場で様々な作曲家が作曲・演奏したと言います。 実はラッススの「シビュラの予言」もそういう作品で、たまげるほど半音階進行と不協和音に充ちています。 こういう要素は、バロック−特にバッハ以降−、ほとんどその豊かな水脈は地下に潜ってしまう。 そして、明快に表にそれが現れたのが、晩年のリストあたりからかと考えています。 そのミッシング・リンクがあるかもしれない。探してみたいですね。



Buxtehude-Jazz-Improvise


四方 さて、即興〜「音楽の真実」の過程はブクス〜ジャズよりもずっとずっと広義の意味合いがあります。

大林  つまり、「カウンター・バランス」の行動をとらなければいけない。 オチがあって収拾されるといいますか。それがないと、音楽としては気持ちが悪い。 その機能が巧く働く人が優れた演奏家だ、というふうに私は考えています。
ミスタッチや偶発的に、勢い余って起こる音は即興の本質ではなく、 聴き手の楽しみのひとつでしかないような気もします。 それは音の担い手の純然たる主張ではないでしょうから。 音楽が即時的な会話という考えに拠り所を求める私にとっては、 音はその瞬間の担い手の伝えたい音でなければならないと思うのです。 もちろん、偶然性を楽しむ音楽もありますが。 即興はインタープレイでも、たとえソロの世界であってもコミュニケーション、 その瞬間のプレイヤーの言霊、いえ音霊だと思います。演奏技術はそれをより確実にするためのものでしょう。 オチのために必死に収拾せんとする前に(それは楽理的な「解決音」ではないですよね?)、 ストレートに表現すべきでしょうから。かなりハイブローな話題ですね。(^^;)

大林 大風呂敷に大穴開いてましたか、、、(^^;;;;;)
私の考察は、もちろん私自身の聴き方に基づいたものですから、 音楽の創造過程で起こることを分析したところで、結局は私自身の主観の一部でしかありません。 しかし、邪道かも知れないと思いつつも、自分の音楽の聴き方をある程度客観化できないか、 という試みでもありました。

確かに四方さんがおっしゃるようにミスタッチや偶発的に勢い余って起こる音は即興の本質ではありません。 また、音はその瞬間の担い手の伝えたい音でなければならない、という点に私も全面的に賛成します。 何かでたらめなことが起きてそれを後から取り繕うのが即興の心髄であるという意味では毛頭なく、 即興でも即興でなくても優れた演奏は、予めある程度周到に計画したものか、 あるいは常日頃の修練なり素質として持ち合わせている才能によって半ば無意識に行われるものではないのでしょうか?  私自身はそういう才能は全く持ち合わせていないので、 優れた即興演奏家がどのようにして即興するかという心あるいは頭の中の営みまで立ち入って考えることは到底できません。

四方 大林  確かに四方さんがおっしゃるようにミスタッチや偶発的に勢い余って起こる音は即興の本質ではありません。 また、音はその瞬間の担い手の伝えたい音でなければならない、という点に私も全面的に賛成します。
と言いますか、私自身もミスタッチや不本意な音を音楽や即興の本質ではないと排斥するものではなく、 要素としては重要なひとつだと受け止めていますから、共通している部分は大きいと思います。 おそらく、大林さんがおっしゃっているのはミスタッチや不本意な音ではなく、 もっと積極的な偶発的な音のことではないでしょうか?

そういった偶発的なものを音楽のもっとも重要な要素として積極的に取り組んでいる人たちもいます。 とくに日本のアンダーグランド的な人たち、明大前のキドアイラク・ホール辺りで活動しているミュージシャンたちも 《音の交差点》というテーマで異ジャンルの組み合わせで偶発的に何が起こるかの試み、 竹田賢一さん率いるA-Musikなどは日韓ライブでFAXで流される内容に即して音にする試み、 言い及んではジョン・ゾーンのゲーム・セオリー・ミュージック、 プロンプターのもとインスピレーションするものの演奏もその傾向はあるように思います。 これらに共通しているものは音の即時性です。

まず、なによりも即興こそが音楽の本質なのでは?と思うところは、音楽が泡沫芸術であることを、 このところ一連のジャズ・ライブに接し、集った方々と話すことによって尚更に痛感したからなのです。 彼等はつねに今とすぐ次のことばかり気にしています。 即時性こそが音楽プレイヤーの存在意義であり、そこにどんな音を展開するのか?その音に満足できるのか否か、 生きるか死ぬかの分かれ目かも。(^^;) ま、そんな大袈裟なこともないでしょうが、 それが音楽なのではないかと感じていたのでした。 結果、優れた演奏として「残る」ものは素質、修練、もひとつ、 その人成りの色(インスパイアさせるもの)、、、に裏付けされるものなのでしょう。 大林さんの書かれていること(以下)と同じですよね。

大林  即興でも即興でなくても優れた演奏は、予めある程度周到に計画したものか、 あるいは常日頃の修練なり素質として持ち合わせている才能によって半ば無意識に行われるものではないのでしょうか?
セッションは会話。 これは現在の彼等の会話、インタープレイを楽しんでいるわけで、 どんな会話を展開するのか期待していることになりますね。 ここでは会話なのですから、その人成りや仲の良さ(^^;) はもちろん、 相乗効果とか仕掛け合いとかバトルとか、必ずやコミュニケーションしていなくては。
こう言うと、録音というものはリスナーだけのもので、演奏者にとっては過去の記録に過ぎないのでしょうね。(^^;) 録音という時空に封じ込められた音楽は所詮過去の人の業。
私が書いていることはあまりに抽象的ですね。(^^;) 自分自身でさえちゃんと把捉出来ていないかもしれません。 この先は不毛の傾向あり?(^^;)

黒田京子さんが先日のライブのあと、 相手の音を聴き自分で演奏しながらいろいろと考えるのだけど、 その時にはもう次へ行ってしまうからね〜、と言っていました。う〜む、、、。



ブクス、モンク、再び高瀬アキへ


大林 佐々木  バッハやヘンデル、マッテゾンが参集した「夕べの音楽」の集いというものは、 書かれた音楽の書法ということだけではなかっただろうと思うのですね。(中略) 実は「即興の夕べ」だったのかな、などと空想しています。
プログラムを見るかぎり、実験や即興を臭わせるものはありませんが、 そこで上演された作品自身が実験的、あるいは即興的な手法をある程度取り入れていたかもしれませんね。 あるいは、まあ、即興はオルガン演奏に限られていたかも知れません。

ところで、面白い情報があります。 リューベックの聖マリアと聖ペーター教会の各図書館には膨大な楽譜の収集があるそうです。 トゥンダーの当時にはイタリア人のミサ、詩篇曲の楽譜があったそうです。 A・グランドィ、ジョヴァンニ・ロヴェッタ、シモーネ・ヴェージ、などの。 だから、もっと古いものや、出所の判らないような「変な」ものも混じっていたかもしれませんね。

佐々木  室内楽はともかく、私はコープマンによるブクステフーデのカンタータ全集を持っていますが、 バッハのカンタータに比べ非常に歪な教会音楽なのですね。 バッハ・ファンからすれば「へんてこな音楽」的要素は多大です。
そうですね、彼の演奏では特にそういう面が強調されているかもしれませんね。私も聴き直してみます。

佐々木  バロック期が実演に基づく音楽形成の深化とすれば、ルネサンス期はまさに、 音楽思想的な実験が繰り広げられていたのではないでしょうか。
オルガン製作においても全く同様ですね。 オルガン・アーキテクトの観点からはルネサンスの方がはるかに自由で面白いです。 ストップリストを眺めているだけでワクワクします。 バロックのストップリストは簡単なプログラムを書いてやれば、自動生成できますから。

佐々木  そして、明快に表にそれが現れたのが、晩年のリストあたりからかと考えています。 そのミッシング・リンクがあるかもしれない。探してみたいですね。
それは興味深い。ところで、リストで最初に半音階が現れるのはどの辺ですかね。 中期に書いたオルガン作品ではすでに顕著ですね。

さて、話はジャズに戻りますが、

四方  今回のライブ3本で、セロニアス・モンクも改めて聴いてみようかなぁと思っています。
モダンジャズで最重要の音楽家は、影響力という点も考慮すると、 第一にミンガス、次にモンク、ということになるのではないかと最近思うようになりました。 しかし、明らかに演奏者として技術的、音楽的に超一流のミンガスに対して、 モンクをどのように捉えればいいのか、即答できないですね。 ピアニストとしての直接的影響力はほとんどなく、やはり、作曲家として評価すべきです。 要するに彼のピアノは、巧いのか、下手なのか、そんなことはどうでもよいのか。

モンクはたっぷり生で聴いたことがありますが、 覚えているのは弾いていない時にピアノの周りを彷徨いている彼の姿であって、 演奏に対する記憶は希薄です。録音も、そのように感じるものが結構多いですよね。

今は殆ど(全然?)持っていないので、私も何枚か買い直すかもしれません。 ちょっと毛色の変わったところで、やはり『あの時代の CBS/Columbia』から出ていた Solo Monk (というタイトルだったと思う) は如何でしょうか。表紙は飛行士のモンク。 代表作ではないかもしれないけれど、ピアニストとしてのモンクの足跡を辿る上では必携のアルバムかと。
以下、英グラモフォン誌の Jazz/Good CD Guide と自分の記憶から:

1. Complete Blue Note Reordings (Blue Note): 1947年と 52年のセッションは、音は悪いが作曲家としてのモンクの真価を窺い知ることができる。 'Round Midnight のオリジナル録音が聴ける。
2. The Unique (Riverside): トリオでは最も定評のある録音
3. Brilliant Corners (Riverside): ロリンズ、クラーク・テリ、アーニ・ヘンリ、O・ペティフォド、マックス・ローチ、ポール・チェンバス... これが最も有名なアルバムかな?
4. At Town Hall (Riverside)
5. It's Monk's Time (Columbia)

以上が大体必携で、あとは好みでいろいろ、といったところかと。

四方 モンクの方は初めて聴いた時は素通りしました(爆)。なんだかよく判らない音楽だなぁ、、、と。 むしろ興味を持っているのは高瀬アキさんや黒田京子さんに触れての今なのかもしれません。 名盤と言われるものは、大林さんの書かれていた《ブリリアント・コーナーズ》、 《セロニアス・ヒムセルフ》と《モンクス・ミュージック》でしょうか。

大林  ピアニストとしての直接的影響力はほとんどなく、やはり、作曲家として評価すべきです。 要するに彼のピアノは、巧いのか、下手なのか、そんなことはどうでもよいのか。
言えますね。(^^;) モンクというと4度進行の曲が特徴という一言に尽きる様です。 多くの曲が手を変え品を変えての4度進行のオンパレード。 それにアクセントをずらしたり(オフ・ビートというものだと思うんですが)、 半音階を巧みに用いたりして、それも美しいメロディを乗せてしまうところがスゴいんだ(受け売りです)と。 それを踏まえて聴くと案外楽しめるのかもしれません。
その意味でお薦めは、コンピもので《セロニアス・モンク、ザ・コンポーザー》 というCDがColumbiaから出ていました。今でも現役か不明ですが。(^^;) これは作曲家モンクとしてのいいとこ取りのCDです。

ところで、佐々木さん、マリア・ジョアとのCD《Looking for Love》を入手されたのですね。 アヴァンギャルドながら、どこか愛くるしいアルバムですよね。私も聴きつづけた日々がありました。 ジャケット笑えるでしょ? アキさんのアルバムにはこれまで必ずどこかに笑わせてくれたり変な「日本」が入っていたのですよ。 意識してやったことなのか否か聞き忘れていますが。

佐々木 とても魅力溢れる楽しさですね。あのピアノのゴリゴリ音、10年前でもはっきり出ていますが、 むしろかなり切れの良いスピード感や呼吸のよさを感じました。
先日の方がやっぱり音そのもののダイナミズム、豊かさは凄かったです。 アキさんのこの10年は、凄い進化の時間だったんでしょうね。

四方さんのサイトで確認したディスコグラフィでも、日本語ベースのタイトルが結構ありますしね。 変な「日本」−そうかもしれません。 ノスタルジックな日本ではなく、日本人が自らエトランゼとなった日本みたいな感じ。

四方 前に佐々木さんから高瀬アキの推薦盤を尋ねられていましたが書きそびれています。 申し訳ありません。
《天衣無縫》、《Shima Shoka》、《Close Up Of Japan》の3枚です(きっぱり)。(^^;) あ、私の、、、ですよ。《天衣無縫》はマイナー・リリースで入手はまず難しい状況です。 《Shima Shoka》はソロで、100%アキ世界。《Close Up...》はw/井野b&弦楽四重奏。

佐々木 まずは、四方さんのリコメンドからでしょう、やっぱり...(^^;)。

最初に《Shima Shoka》を買おうとしたのですがTowerの店頭になくて、 ネットで頼んだLooking for loveが最初になってしまいました。

このところ、一気呵成に異分野コンジャンクションが多かったため、ボーダーゾーン的耳具合のまま。 何を聴いても面白いけれど、聴き急ぎのため、逆に頭に残っていかなくなり、 これは無意味であると思いました。それ以前に音盤獲得資金もないので、 しばらく貧乏人としては、もう少し的を絞り、徐々に拡張していくことにしましょう。 メンゲルベルクは気に入りました。これはもう少し集めようと思います。 ここに聴ける彼のフリーは、パンツのゴムが緩い口に聞こえますが、切れ味ではなく、 人間的営為そのものの持ち味が出てます。 結局は、演奏を聴くのも人物を見ていることと同じなのでしょう。

四方 佐々木  アキさんの この10年は、凄い進化の時間だったんでしょうね。
高瀬アキさんの10年ほど前のライブはホントにテンションが張り詰めていて凄かった。 人間的にもそうだったと思います。楽屋で会った時でさえ、ちょっと怖かったくらいです(笑)。 今と印象が全然違います。

佐々木  変な「日本」−そうかもしれませんね、ノスタルジックな日本ではなく、 日本人が自らエトランゼとなった日本みたいな感じ。
海外で過ごしているからこそ見える日本とも言えるかもしれませんね。 それにしてもタイトルに《Shima Shoka》なんって洒落てますよねぇ。 絶対アキさんって芯からの日本人で日本が好きな方だと思います。 ただ、カタチばかりの日本的な生き方や音楽スタイルではやっていけない方なのでしょうね。

佐々木  結局は、演奏を聴くのも人物を見ていることと同じなのでしょう。
今回のアキさんの場合でも当て嵌まります。 ピアノ、タッチなどなどが好きで密に疎にずっと聴いて来ましたが、 今それにアキさんというお人柄が結びついて、 ますます高瀬アキ・ワールドにぞっこんとなってしまいました。 音楽とは不思議な世界でもあります。

大林 佐々木  あのピアノのゴリゴリ音、10年前でもはっきり出ていますが、 むしろかなり切れの良いスピード感や呼吸のよさを感じました。
四方  高瀬アキさんの10年ほど前のライブはホントにテンションが張り詰めていて凄かった。 人間的にもそうだったと思います。
気になるお言葉です。入手しにくい録音は、私もぜひ聴かせて下さい。 7月(だったか)に予習用として渋谷タワーで三枚ほどCDを入手して聴いています。

アキさんの心境は、 300年前の「リューベックに居住するデンマーク人」であったブクステフーデのようなものかなあ、 などと勝手に想像しています。

佐々木 佐々木  あのピアノのゴリゴリ音、10年前でもはっきり出ていますが、 むしろかなり切れの良いスピード感や呼吸のよさを感じました。
四方  高瀬アキさんの10年ほど前のライブはホントにテンションが張り詰めていて凄かった。 人間的にもそうだったと思います。
音的には、今のアキさんはさすがにレベルは違いますね。 それが10年の進化と書いた所以ですが、この当時の演奏の切れ味は、 いつまでも耳に残しておきたいものではありますね。 ただ、先日は違う意味でテンションは無茶高かったですよ。 聞き手にはしっかり伝わってましたもの...。

佐々木  結局は、演奏を聴くのも人物を見ていることと同じなのでしょう。
四方  今回のアキさんの場合でも当て嵌まります。 ピアノ、タッチなどなどが好きで密に疎にずっと聴いて来ましたが、 今それにアキさんというお人柄が結びついて、ますます高瀬アキ・ワールドにぞっこんとなってしまいました。
私もそうなりそうな感じですね。 例のアマリアのオリジナルを引っぱり出して、聴き比べてみましたが、 いやはや、完璧に違う世界でした。

四方 大林  アキさんの心境は、 300年前の「リューベックに居住するデンマーク人」であったブクステフーデのようなものかなあ、 などと勝手に想像しています。
ブクス・わず・おーるもすと・あ・じゃず・ぷれいあー、ですね。

佐々木  音的には、今のアキさんはさすがにレベルは違いますね。 それが10年の進化と書いた所以ですが、この当時の演奏の切れ味は、 いつまでも耳に残しておきたいものではありますね。
固定観念に捕らわれない音楽人ですからね、高瀬アキさんという人は。 それは10数年前からそうでしたよ。




Back



Last Revised : Nov.14.1999