Writings

高瀬アキ音楽・奈落の万華底
- Pseudo-POSEIDONIOS的咀嚼 (Aug.20,1999 〜)


Yuji "Fugetzusai" Sasaki
Pseudo-POSEIDONIOS




岩本町「TUC」の 「 高瀬アキvs.黒田京子 」へ。こりや面白かつた。ジヤズといふより、 コンテンポラリ。壱ステエジ目は、セロニアス・モンクのメドレエもあり。 お二人でのインプロバイズは、目茶面白かつたが、高瀬さんの、あの固い打鍵に痺れる。 また、弐ステエジ目でのプリペアド(といふより、プリペアしながらの進行)ソロも面白かつた。 一方、黒田さんは、リズム・コンビーネシヨンが抜群にうまい。非常にしなやかで、 強靱に撓むフレージング(否、スピリツチングとでも言ふか、要は息吹きだ)は絶妙なノリ。 ピアノ2臺の間近でも、思つてゐたほど全然やかましくなく、このあたりがさすが。 クラスター(肘打ちを含む)も、うるさいといふ感觸がまるでなく、むしろ心地よい。 高瀬さんの兩腕俯せクラスター、あれは藝術ですな。

TUCから神田驛までぼんやり歩く中、ふと、この數年、 自分を消沈させてきたある考へに終止符を打つことにした。 結局、生眞面目にセイブして生きてきたゞけか。やつと、その殻を脱ぐ氣概になる。 しかし、自分が墨守してきたフレエムをブツ飛ばして生きはじめると、とんでもない人間になりさうな氣もする。 それでも仕方あるまい。良い夜だつた。 (Aug.20.1999)


昨日書き忘れたが、確か2曲目の終はりだつたか、黒田さんのパートの超低域。 あの轟音のやうな伸びがだうにも忘れられない、臓腑に浸み入る音だつた。 シンセの作られた超低域なんてメぢやない。 昨晩を聽き、何だかクラシカルのピアノが白々しく感じられたりもする。 寢る前に、何故かアムランのメトネルとジエフスキのウインズボロを聽いたが、全然體の中に音が入つてこない。 やつぱり、夕べで今まで以外の何か違ふものを捉へたのだらう。 (Aug.21.1999)


ピアノだけぢやなくて、クラシカルを聽いても、素通りしてゆく。參つた。 四方さんからいたゞいたDa Capoのボサノバのテープ、朝飯からかけまくる。 スタンダードばかりだが、實に心地よい。昨年もエリアーヌを聽いてゐたから、夏はボサノバ。 (Aug.22.1999)





Maria Joao+高瀬アキ「 Looking for love 」(enja) を聽く。 1曲目がアマリア・ロドリゲスで驚くが、後半崩しで納得。 キャシー・バーベリアンの実験声楽かと思われる部分も...(^^;)。 高瀬さんの打鍵がやはりよい。 (Sep.08.1999)





午後は少し出掛け、昨日お借りしたものゝうち、高瀬アキ『 天衣無縫 』を聽く。これは「すげえ」。 高瀬アキさんはライブとライブ録音しか知らなかつたので、スタジオ制作ものは實は初めて。 あのピアニズムだけでなく、音達の考へられ方、配置などなど、音樂の向かうに廣大な光景が豁然と拓ける。 (Sep.19.1999)


晩。高瀬アキ&井野信義『 天衣無縫 』 ヘツドホンで調整しながら録音。うつかり聽き惚れ、録音しくじる。 鼻血が出るほど凄い音達。もとの録音が非常に素晴らしい。 フイルアツプする『 Twilight Monologues 』の「鳥」も素晴らしい。 (Sep.23.1999)


地殻變動中。スパアクはいつ?四方さんに笑はれさうだ。 (Sep.25.1999)


午前。四方さんにお借りした高瀬アキ『 SHIMA SHOKA 』。 これも凄い!鼻血こそ出なくなつてきたが、先日のライブでのエツセンスがこゝにある。 うゝむ、この奈落への騎行、廢人になる前に記録しておかねばならぬ。 夢野久作『ドグラ・マグラ』のやうに...。 (Sep.26.1999)




私の項では、高瀬アキのピアノに就きて、單に打鍵まはりの妙諦しか書き毆つてゐない。 さのみに非ずことは判つてゐても、巧く書けなかつた。 たゞ、張り詰めた音達の合間に、時にほつと吐息(つ)かせる得もいはれぬ暖かな情緒が、 子供の無心さのやうに覗くことは加へておきたい。 その情緒とは、我々の口腔と味蕾とに日本の血のソオスを味はせて呉れる何かだと思つたのは、 隨分經つてからだ。

彼女の言行録の中に、和蘭びとも獨逸びとも、それなりの血の味があると語つてゐるところがあつて、 私には興味深かつた。その自然さは彼女も同じだからだ。 それは、音の中に彼女の日本があるといふ吊り庭(jardin suspendu)ではなく、 日本に對して意識も存在も連續した儘であることの證左なのではないか−ふとさう感じた。 語感、音的顛末、タイトリング、日本に由來すること多し。懷かしさと共に感じる幾分の含羞み、面映ゆさ。 自然な對峙−それは我々にとつても「おセンチな日本」なのだ。日本の音樂、といふやうな大見得とは違ふ。 謠ひ、そしてお祭りや水面の音も、生活音も、日本語の音韻も皆ごつたに内在し、 そこからジヤズといふ、或る音の修辭法によつて甦生解決され、生きた音樂のダイナミクスを結ぶ。 高瀬アキのピアノには、さういふものまで聞こへてきた。

數枚の録音を聽き、哮る打鍵も、跳躍する生命も、根源はそこからの發露と悟(わか)つた時、 私は高瀬アキといふ人の面白さが、稍しばかり理解できたやうな氣がした。 音の意匠に隱された宝石なのではなく、實は同根であつたといふことを。 彼女の眼は、現在を表象する日本に非ず、今の日本が自身語ることのなくなつた本性かもしれない。 それが、今樣の日本、日本の中の日本びとからすれば、既に乖離したものなのかもしれない。 だからこそ、何か懷かしく、何か照れ臭い。外に居る日本びとの方が、 日本をよく觀察できるとしても、音樂家は診斷者ではない。其處に看た何かも、 自己遡及した果てから紡ぎ出された結果なのだ。そのフイルタなくして音樂が、風に培(の)ることはない。

でも、私自身と云へば、題付けの素敵な語彙と其處から發する彼女の音のイメジアリとを、 同じ源泉として捉へてゐなかつた。否、寧ろ、意識的に分けやうとしたのかもしれぬ。 目を閉じる必要はない。全ては耳から、豁然として象づくられるからだ。 その風景は、高瀬アキが生活してきた日本そのものであり乍らも、聞き手自身のものでもある。 (Nov.10.1999)



佐々木裕二 さんのアーティクル(1999)は ダイアリー・サイトやメールなどに書かれたものを ご本人の了解を戴き(時にはこっそりと^^;;)このページ用に再編したものです。


Last Revised : Nov.14.1999